2009年6月29日月曜日



電車にあと一歩で乗り遅れてしまった時、コンビニで299円と言われてお財布の中に298円しか小銭が無くて1万円札をくずさなくてはいけない時とか、日常の中には「ちょっとガッカリ」することがあります。

でも本当に心からガッカリするのは、人に裏切られた時ではないでしょうか?

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【核持ち込み密約:政府に説明責任 村田元次官「冷戦終結、時代違う」】

 1960年の日米安全保障条約改定時に、核兵器搭載艦船の寄港などを日本政府が認めた「核持ち込み密約」について、元外務事務次官の村田良平氏(79)が前任次官から文書で「引き継ぎ」を受けていたと毎日新聞に証言した。日米安保体制の構築にまつわる秘密交渉プロセスは、米公文書や日米の交渉当事者による証言でも明らかにされてきているが、事務次官経験者が「密約」の存在を初めて実名で認めた意味は極めて重い。唯一の被爆国として核廃絶の旗振り役になる一方で、密約を否定し続ける日本政府には明確な説明責任が求められる。【中澤雄大、犬飼直幸】

 「(外務省を)辞めてもう十数年たち、冷戦も終わって時代が全く違う。だから、もういいだろうと判断した」。村田氏は証言した理由を語った。昨年出版した著書「村田良平回想録」(ミネルヴァ書房刊)でも、寄港などの事前協議は必要ないとする日米間の「秘密の了解」があったと明らかにしている。

 60年の日米安保条約改定では、核兵器の日本への持ち込みは事前協議対象とされたが、核兵器を搭載した米艦船の寄港・通過は事前協議の対象としないと秘密合意していた。しかし、63年3月、池田勇人首相(当時)が「核弾頭を持った船は日本に寄港してもらわない」と国会答弁。密約との矛盾を懸念したライシャワー駐日米大使が大平正芳外相(同)との間で、寄港密約を再確認した。村田氏の証言は、こうした密約を改めて裏付けるものだ。

 核密約について、河村建夫官房長官は29日の会見で「核持ち込みの事前協議がない以上、核持ち込みはない」と重ねて否定した。こうした政府の姿勢に対し、村田氏は「明らかにうそ」と断言。著書の中でも「(非核三原則のうち)持ち込ませないとの原則は、直ちに廃止すべきだ。国民を欺いているものだからだ」と強調している。

 日米密約問題を研究する信夫(しのぶ)隆司・日大教授(日米関係史)は「(村田氏は)政治状況が変わりつつあり、密約を隠し通す意味がなくなったと思っているのではないか」と指摘した。
 ◇「日本のウソ、明らか」--村田氏の一問一答

--事務次官になる前から密約の存在は知っていましたか。

 密約があるらしいということはいろんな意味で耳に入っていましたけど。密約に関する日本側の紙を見たのは事務次官になった時が初めてです。

--その時に初めて確認をされたということですか。

 まあ、確認もへったくれもない、ああそうだろうと思っただけです。ライシャワー(元駐日米大使)だったかな。「ずいぶん前にそういう約束がある」と言ったことが、アメリカの外交文書として公開された。日本の新聞が少し騒ぎましたよ。「ライシャワーがこんなことを言ってる」と。そうしたら政府は必死になって「いや、そんな密約はない。ない」と言った。アメリカが外交文書を公開して「密約があった」と言ってるのにね、日本は「そういう密約はない」と言ってる。どっちかが言ってることがウソなんです。どちらがウソかといえば、日本がウソをついていることは明らかですよ。

--密約についての引き継ぎの紙はどういう紙か覚えていますか?

 外務省で普通に使う事務用の紙ですよ。

--取り扱い注意とか機密とかの印はなかったんですか。

 ありません。

--紙一枚なんですか。

 外務省で使う紙に書いて、封筒に入っていて、前任者(柳谷謙介氏)から私は渡された。「この内容は大臣に説明してくれよ」と言われて、それは(第3次中曽根内閣の)倉成(正・外相)さんと(竹下内閣の)宇野(宗佑)外務大臣には話しました。

--紙に書いてある文言はどのような文言かご記憶は。

 正確には覚えていません。まあおおよその内容はもちろん覚えていますけどね、「てにをは」までは覚えていません。

--おおよその内容としてはどのような。

 (「核を搭載した米艦船の寄港及び領海通過には事前協議は必要ではない」と)本に書いたようなことです。

--米国の外交文書の公開があって、日本が否定しましたが、その反応についてはどうみていたんですか。

 なんでそんなウソを言い続けるのかなとぶぜんたる気持ちになりましたね。どうせ明るみに出る話ですから、いつかは。遅かれ早かれ。

--密約引き継ぎの時は「きちんと説明してくれ」の一言だけだったのですか。

 はい。

--後任の次官(栗山尚一氏)に同じように引き継がれた?

 そうです。

--外務省にいた立場として「密約」を理解できる部分はないのですか。

 ありません。非核三原則なんてものを佐藤(栄作)内閣の時に出したでしょう。そんなこと自体が私に言わせれば、ナンセンスだと思ってまして。当時。個人的な見解ですけど。

--三原則を打ち出すこと自体が問題か?

 3番目の核を持ち込ませないという話がね。持たない、作らない。これらはいいですよ。しかし、核兵器をたまたま積んでいるアメリカの船が日本の横須賀に立ち寄って燃料を補給して、またベトナムに行くとかいう場合、そんなものは「持ち込み」には入らないですよ。(核搭載艦船の)寄港も領海通過も全部「持ち込み」と言ったこと自体がナンセンスです。(ただ当時は)冷戦時代だし、日米それぞれの都合もあれば機密もあっての話ですからね、とがめだてする話でもない。だから黙っていただけですよ。【聞き手・朝日弘行】

2009年6月27日土曜日

NO MORE HIBAKUSHA



ヒバクシャとは?

ヒバクシャには被爆者と被曝者がいます。

  【一般的に「被爆」は核爆弾による被害を受ける事を指し、英語でも「Hibaku」は同じ意味で使われる。よく似た言葉に「被曝」があるが、こちらは放射能(放射線)にさらされた場合を指す(詳しくは『被曝』の項目を参照のこと)。厳密にいえば、核爆弾による直接攻撃を受けた者は「被爆者」、直接の被害は受けず、核爆発に伴う残留放射能を浴びた物は「被曝者」である。】(Wikipediaより)

英語のHibakushaは、「被爆」も「被曝」も同じ。

『ノー・モア・ヒバクシャ』というNHKのサイトが立ち上がったそうです。

是非、覗いてみてください。

2009年6月26日金曜日

もしも、東京に・・・



今年の4月に東京大空襲・戦災資料センターへ訪問してきたのですが、もしこの新聞記事のようなことが起きていたら・・・。

東京もヒロシマやナガサキのように「トーキョー」とカタカナに記載されていたかもしれません。

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東京を化学兵器で空襲…英軍、第2次大戦で検討

【ロンドン=鶴原徹也】第2次大戦中、英軍の化学兵器開発部門で東京を化学兵器で空襲する作戦案が検討されていたことが25日、英公文書館の公表した機密文書で明らかになった。

米軍に対して、東京毒ガス攻撃を非公式に提言した可能性もある。

文書は、英軍需省(当時)化学兵器委員会分科会座長会議の備忘録。1944年5月25日、同26日の二つの押印があり、「ゴルドニ少将は米国での討議の報告で、東京への化学兵器攻撃の効果評価を試みるよう提言した」と記されている。

備忘録には、英専門家による「東京化学兵器攻撃」と題する44年5月8日付文書が添付されており、ここでは「東京の夏は高温多湿でマスタードガス使用に好条件。降雨時を避けて投下すれば最大の脅威となる」と指摘。

また、「神田、日本橋、京橋、本所、深川」など「人口密集地」は「木造の伝統的家屋が多く、可燃性が高い」と言及。空襲は「ホスゲンガス、マスタードガス、焼夷(しょうい)弾」の三つの選択肢があり、「ホスゲンガス使用の場合はかなりの死傷者を出す。マスタードガス使用の場合は密集地から人々を追い払い、数日後に焼夷弾を使用できよう」などとしている。

(2009年6月26日14時33分 読売新聞)

2009年6月25日木曜日

原爆症認定の新基準



賛否両論あるようですが、戦後64年の今、原爆症認定基準の拡大が決まりました。

長い時間をかけて闘ってこられた方々がいらっしゃるからこそ、このような運びになったと思います。最近、読んだあるブログに原子力のことが書いてありました。

原発や六ヶ所村の座り込みに行こう!という勧誘を受けるという方が、ふと、座り込みに行くのは電車?自動車?自転車?それとも歩き?と問うのです。徒歩以外は全て原子力が関わっている交通手段だと言い、原子力はどんなに反対しようとも私たちの生活に浸透しているのだと。もちろん、広島や長崎は繰り返してはいけないと書いてはありましたが、チェルノブイリの話が出て来ます。

チェルノブイリの立ち入り禁止区域にはまだ数十人の住民が住んでいて、原爆症になっていてもよいはずなのにまだ発病していないそうなのです。それはなぜか?取材した記者がこう残したそうです。「彼らはこの土地に住んでいる事をとても感謝していた。」 そしてブログは、人間は自分たちが思っているほど弱い存在ではないようですね、と括っていました。

この筆者には、広島、長崎へ行き、自分の目で見て欲しいと思いました。そして原爆症認定の裁判に目を、耳を傾けてもらいたいと願います。


◇原爆症認定の新基準

08年4月、被爆者の救済拡大と迅速化を目的に基準が緩和された。(1)爆心地から3・5キロ以内で被爆(2)投下から100時間以内に2キロ以内に立ち入り(3)100時間経過後~2週間、2キロ以内に1週間程度以上滞在--の該当者で、がんなど悪性腫瘍(しゅよう)、白血病、副甲状腺機能亢進(こうしん)症、白内障、心筋梗塞(こうそく)の5疾病は原則として認定。これらに該当しなくても、個別の事情を考慮して認定されることもあり、月約14万円の医療特別手当が支給される。

2009年6月14日日曜日

オバマジョリティと被爆3世の11歳の女の子


先月、5月のことになりますが、国連で核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会が行われ、平和市長会議(Mayors for Peace)の代表として、秋葉広島市長と長崎田上市長が参加の為にNYに訪問しました。

秋葉市長は演説で「オバマジョリティ」というオバマ大統領とマジョリティ(多数派)という造語を用いて、4月のオバマ大統領のプラハ演説を讃えると共に、2020年までに核全廃を達成するというヒロシマ・ナガサキの目標の実現を求めました。

市長たちと同時に広島・長崎からも被爆者たちがNY入りし証言しましたが、その中に被爆3世の11歳の少女がいました。

その少女の証言をSGIにて聞く事が出来ました。おばあさんと一緒に証言活動を始めたという彼女は8歳の時、原因不明の腹痛に襲われ2週間ほど入院したそうです。彼女のお母さんは彼女が生まれる前に血小板が減る難病を患ったと言い、自分が今この世にいることに感謝していると話した。

知人が幾つかの高校で証言活動があり、その通訳として参加したのですが、自分たちとはほぼ同世代のこの少女の話には衝撃を受けていたとの事。知人は、被爆者たちが高齢化となっている今、これからは被爆者2世、3世が証言活動をしていく時代だと強く主張していました。

その証言から1ヶ月、広島では核兵器廃絶の「オバマジョリティー・キャンペーン」が始まるようです。